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Eight Melodies [日常]




愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、
非礼を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の悪を念はず、
不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、
おほよそ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。
愛は長久までも絶ゆることなし。

- 新約聖書 コリント人への前の書 13章 -
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NYBarの結果 [日常]

本日、今年7月末に受験した、NYBar(ニューヨーク州の司法試験)の結果が発表されました。

結果は…

合格でした!

今回の試験ばかりは、本当に全く自信がなかったので、合格していてとても嬉しいです。

まあ、実際にニューヨークでニューヨーク州弁護士として活動する予定はないので、持っていてもあまり意味のない資格ではありますが、試験勉強がものすごくハードだったこともあり、良い結果が出たことで、心理的に報われました。

いや、しかし、まさか自分がアメリカの弁護士になるとは思わなかったなあ。

グラマーで赤点を連発していた高校のときの自分に教えてあげてたとしても、絶対に信じないだろうな…

--

実際にニューヨーク州弁護士として登録できるのは、来年2月に予定されている宣誓式の後ですが、とりあえず今日は合格の喜びをかみしめて眠りたいと思います。
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オバマ大統領のノーベル平和賞受賞と「核抑止力」について [日常]

つい先日までアメリカにいた身として、やはり先日のオバマ大統領のノーベル平和賞受賞のニュースは少し気になっている。

「破壊兵器を大量に保有している国の元首が、『核兵器は使いません』と宣言しただけでノーベル賞って変じゃない?」

素朴な疑問である。そして、きっと正しい疑問なのだろう。

核兵器の撤廃を主張したとはいえ、いつ撤廃するか、どのように撤廃するかの具体的手順がまったく決まっていない状態では、ほとんど何の意味もないに等しい。
その意味では、よく日本の市町村がやっている「核兵器反対都市宣言」と同じレベルである。

オバマ大統領の任期は、再選されることを前提としても最長であと7年だが、その間にアメリカが核兵器の撤廃に向けて本気で動く可能性はきわめて低いであろうし、その後に共和党が政権をとった場合、核兵器撤廃政策が継続される可能性は皆無であろう。

そもそも、「核兵器を持ってるけど使うのや~めた」でノーベル平和賞という理屈が通るなら、仮に北朝鮮が既に核兵器を実戦レベルで保有しているとして、金正日が突然「我が国は核兵器は使わないよ」と宣言したら、彼にノーベル平和賞を与えなければならないということになる。

--

多くの人が同じように感じているのではないかと思うが、ノーベル賞の中でも平和賞は、なんだかよくわからない人になんだかよくわからない理由で授与されることが多いように思う。
これは、物理学や化学、医学・生理学といった技術系の分野と異なり、「平和」という概念が抽象的すぎるというのが第一の理由だろう。

「○○の研究開発により、○○が治療できるようになった」
とてもわかりやすく、素人にも漠然とそのすごさは理解できる。

「○○の尽力により、○○の平和が向上した」
平和が向上するって何だろう。
一時的なもの?恒久的なもの?ノーベル平和賞が与えられた地域の平和が、その後すぐに破れた例は枚挙に暇がない。
そもそも、平和の定義ってなんだろう。世界平和はどうやって測量するのだろう。

ノーベル賞の中でも、平和賞は、その後戦争で多くの人を殺傷することになるダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの贖罪の意識から設けられたものと言われている。
しかし、物理学、化学、医学・生理学、文学、経済学といったノーベル賞の他の分野と異なり、「平和」というのは、客観的に測れるものでもなければ、成果が永続的に残ったりするものでもない。

つまり、「なぜノーベル賞なのか」の説明がしづらいのだ。
(文学や経済学も、自然科学系に比べれば客観性は劣るが、それでも文学であれば作品、経済学であれば経済理論といった形で成果は残ることから、事後的な検証は容易である)

これらの理由から、ノーベル平和賞は、ノーベル賞の中でも「格」が数段劣るものとして捉えられているとも聞く。
要するに、イロモノ扱いなのだ。

他の自然科学系の分野では(また、文学、経済学でも)、ノーベル賞は世界最高峰の権威のある賞としてみなされているのに対し、平和賞だけがこのような扱いになっていることは、結果的には全体としてノーベル賞そのものの権威を貶めるものではないか。

アルフレッド・ノーベルが何を意図したのかはよくわからないが、ノーベル賞を真に権威ある賞としたかったのであれば、少なくとも平和という分野については「ノーベル賞」の1つとしてカテゴライズするべきではなかったように思う。
「平和」の代わりに「数学」あたりを入れ、「平和」については、「ノーベル賞」とは別の形でその促進を図るべきではなかったか。
たとえば、アルフレッド・ノーベルの莫大な遺産の一部を分割し、「紛争地域に援助を行う基金」を設立しても良かったと思う。

--

本当は、この記事では、オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したことによる今後のアメリカの核抑止力戦略について考察したかったのだが、これについては内田樹先生があまりにも的確な考察を書いておられたので、自分の記事は少し違う角度から書いてみた。

以下、内田先生の考察を転載。

--

核武装の可否について意見を問われる。
核抑止力が現に外交的なカードとして機能している以上、オバマ大統領のいう「核なき世界」というのは非現実的な選択ではないかというご下問である。

よい質問である。

「核抑止力」とは何かという原則的なことからご説明する。
それは「核兵器を使うかもしれない」という可能性がもたらす恐怖の効果である。
より正確に言えば、「どのタイミングで、どういう条件で核兵器を使うかについて予測が不可能であることのもたらす恐怖」の効果である。

アメリカは核兵器を「理性的」に使おうとしている。
だが、理性的に使われる限り、核兵器は「恐怖」をもたらすことができない。
だから、現に、アメリカの核はテロリストに対してはまったく抑止力として機能していない。
それはテロリストが潜伏しているさまざまな国家を非戦闘員こみでテロリストごと「吹き飛ばす」というオプションをアメリカが自らに禁じているからである。
つまり、テロリストにとってアメリカの核は「あってもなくてもこっちのやることには関係ない兵器」である。

けれども、仮にアルカイダが北朝鮮を相手にテロを行った場合には、北朝鮮がアフガニスタンとパキスタンのいくつかの都市をテロリストごと吹き飛ばすという可能性はアメリカがそれをする可能性より高い。
実は、核兵器の「正しい使い方」は、それがきわめてずさんに、非理性的に管理されているために、「どういうタイミングで発射されるかよくわからない」という恐怖のうちに仮想敵を置くことにあるのである。
その意味で言えば、バラク・オバマよりもウラジミール・プーチンよりも胡錦濤よりもニコラ・サルコジよりも、金正日の方が「核兵器の使い方」においては「正しい」。

ロシアの核兵器が久しくアメリカ国民を恐怖させていたのは、「どうもロシアの軍部はクレムリンの統制が及ばないらしい」という、敵国の統治システムの不具合が繰り返しアナウンスされていたせいである。
法治国家の、選挙で選ばれた、有徳で賢明な統治者が核兵器を管理しているならば、それは敵にとっては少しも怖いものではない。
アメリカの問題点はそこにある。

だから、アメリカでは、「アメリカの核」を恐怖させるために、「アメリカ軍は大統領の命令に従わずに勝手に核兵器を発射するかもしれない、よく統制のされていない軍隊である」という「神話」をあらゆるメディアを通じて繰り返し世界に喧伝しているのである。
頭の狂った好戦的な政治家や軍人が「暴走」したせいで、核兵器が法治国家の統制を離れて、「敵国に向けて発射されてしまいました」という映画やテレビドラマを私はこれまでにたぶん100回くらい見た。
これはもちろんアメリカ軍を貶めるために作られた話ではない。
そうでもしておかないと「アメリカの核兵器」はぜんぜん恐怖心を与えることができないということをアメリカ人だってわかっているから、「そういう話」を繰り返すのである。

「アメリカにも“金正日みたいな奴”がいて、それが核兵器をコントロールしているかも知れないんだぞ」という話をうるさく言い立てておかないと、核兵器なんかあっても、ぜんぜん怖くないからである。
バラク・オバマが「核なき世界」を宣言し、それについてノーベル平和賞が与えられた後に、アメリカ国内では一斉に「ふざけたことを言うな」という反発があった。
これは反発があって当然である。
オバマ大統領のような「理性」と「核兵器なんかオレら平気で使っちゃうもんね、だって、オレらバカだから」的な「非理性」が同時にアメリカ国内に併存していないと、核抑止力が効かなくなってしまうからである。

「キチガイ」が持っていると信じられているときに、「刃物」はその殺傷能力をもっとも効果的に、抑止的に用いることができる。
そういうものである。
核抑止力戦略というのは、「人間は愚鈍で邪悪だから、核を抑止できないかもしれない」という恐怖を心理的な基礎にして構築された戦略である。
パラドキシカルな構造だが、いかにも人間が作り出しそうなシステムではある。

という話をした上で、核抑止力戦略の根本的な危うさについて、質問した高校生にお答えする。
核兵器を抑止力として有効利用するためには、軍の中枢部に「あきらかに合理的に推論できないバカ(だと世界中から思われている人間)」を一定数、定期的に配備しておかなくてはならない。
「あきらかに合理的に推論できないバカ(だと世界中から思われている人間)」をつねに軍事部門の中枢に配備し続けなければならない防衛システムのもつ根源的な欠陥は、そいつが「『バカだと思われている』だけじゃなくて、ほんもののバカ」である可能性を原理的には排除できないという点にある。

--

「鳥取で核について考える」 内田樹
http://blog.tatsuru.com/2009/10/15_1145.php

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Tour de France 2009 [日常]

うおお!!

新城が第2ステージで5位!!
(ロードレースに興味のない人はいまいちぴんとこないだろうけど、これ、めちゃくちゃにすごいことです)

復活したランスが総合2位!!

熱い、熱すぎる。

見たいよ~、見たいよ~(T T)

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NYBarがきつすぎて、観戦の余裕などゼロ。

これ、瞬間風速的には、日本の司法試験よりもきつい。
誰だ、「比較的簡単に受かる」とか言った奴は??

俺です、ごめんなさいm(_ _)m

試験まであと3週間、現時点で全く合格する気がしない

なんで事務所の先人はみんなこんなのに受かってるんだろう…

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フィリピン人一家不法滞在事件がアメリカで起こったら [日常]

少し前に書いた記事。

色々考えた結果、書いたものの公表を見送っていたのだが、もうぼちぼちと日本での議論も落ち着いたころだと思うので、公表することにした。

なお、今回の公表にあたって、記事は一切修正していない。
この記事を書いたのは、2009年の2月の半ばころ。
その後、いろいろあったわけだが、あくまでこの記事は当時の僕が考えたことに基づいて書かれていることをご了承いただきたい。

--

最近日本で話題になっているフィリピン人一家不法滞在事件について、少し考えてみる。

まずは、報道内容について。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000044-san-soci
(リンク切れに備え、以下に原文を引用)

「私は100%日本人」 フィリピン人中1女子の家族、「在留」あす判断
2月12日8時3分配信 産経新聞

 「私は、(自分が)百パーセント日本人だと思っています。両親と日本で暮らしたい」。不法滞在のため、国外への強制退去を命じられたフィリピン人の娘ら家族が、法相の裁量で日本滞在を認める「在留特別許可」を入管当局に求めている。家族は13日、入管に出頭することになっている。そこでどのような判断が言い渡されるのか。期待と不安を胸に一家は、その日を迎える。
                   ◇
 ■突然の「告白」
 在留特別許可を求めているのは、埼玉県蕨市の中学1年生、カルデロン・のり子さん(13)一家だ。
 のり子さんの父、アランさん(36)は平成5年に、母、サラさん(38)は4年に、それぞれ他人名義のパスポートで、日本に不法入国し、7年にのり子さんが生まれた。18年7月、買い物途中のサラさんが、路上で警察官の職務質問を受け、入管難民法違反で現行犯逮捕された。
 当時、のり子さんは小学5年生。母の逮捕という衝撃の事実に、追い打ちをかけたのは父の一言だった。
 「のり子、お前はフィリピン人なんだよ」
 「ただただ、びっくりしました。全く実感がわかなくて」と、のり子さんは当時を振り返る。
 母の逮捕まで、自分がフィリピン人であることを知らなかった。のり子さんにとって、その“告白”は衝撃だった。娘を普通に学校に通わせ、日本人と同じように育ててきたアランさんは、「フィリピン人であることを、なかなか言い出せなくて…。本当に悪いことをした」と涙を流した。

 ■両親への思い
 「正直言って、両親をうらんだこともあります。『何でもっと早く言ってくれなかったの?』と…」
 横に座る両親にちらりと目をやったあと、伏し目がちに胸の内を語った。
 両親の不法入国の結果、自分も不法滞在となり、フィリピンへの“帰国”を迫られている事態をよく理解するにつれ、心の葛藤(かっとう)は続いた。
 「でも、家計を支えるため、日本に出稼ぎに来た両親をうらんでもしようがないって分かったんです」
 中学1年生になったのり子さんは、フィリピン国籍であることを頭では理解しながらも、「私は百パーセント日本人」という思いに変化はない。むしろ、自問自答し、「何もフィリピンについて知らない自分は“日本人”だ」と、より意識するきっかけにもなった。
 サラさんは逮捕後、裁判で有罪判決を受け、一家には国外への退去強制命令が出された。一家は、取り消し訴訟にも敗訴し、現在は約1カ月ごとに、入管の判断を仰いでいる。

 ■示された選択肢
 一家は、街頭などで集めた署名を、法務省に提出するなどして今の立場を訴える活動を続けている。10日には日本外国特派員協会で会見し、アランさんは「(娘を)このまま日本で勉強をさせてあげたい」と訴えた。
 だが、両親が1月14日、入管に出頭した際には、再び1カ月間の滞在延長は認められたものの、「3人で一緒に帰国して住みたいか、のり子さんだけを残して、日本の学校に通わせたいか」と厳しい選択を迫られている。日本生まれののり子さんには、在留を許可する可能性を示しつつも、不法入国をした両親の在留は、認めないという判断を入管が事実上示したのだ。
 「3人一緒に日本で」と願う一家にとって、この選択肢はショックだった。
 アランさんは「今後も(入管に)希望を伝えていく」と話すが、先行きは決して明るくはない。13日にはどんな判断が出るのか。支援者らはかたずをのんで見守っている。

--

この後、結局13日には、娘に対する在留特別許可は出されたものの、両親には在留特別許可が出されず、結果、一家は家族全員で帰国するか、娘のみが日本に滞在するかのいずれかを選択しなければならないという状況である。

--


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090214-00000103-san-soci

フィリピン人一家での在留を認めず
2月14日8時3分配信 産経新聞

 不法滞在で、国外への強制退去処分を受けた埼玉県のフィリピン人中学生、カルデロン・のり子さん(13)と父母の家族3人が、在留特別許可を求めている問題で、森英介法相は13日、閣議後会見で、「一家全員での在留特別許可はしないことを決めた」と述べた。
 同日、東京入国管理局に出頭した父母に対し、入管は、今月27日までにフィリピンへの帰国日を決めて再出頭するよう命じた。
 入管側は、のり子さんだけなら在留特別許可を認める可能性を示唆しており、少なくとものり子さんの父、アランさん(36)と、母、サラさん(38)は今月末にも強制退去となる可能性が高まった。

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この事件について、日本では、家族の心情を慮り、在留特別許可を与えるべきとする意見と、特別扱いはすべきではないという意見が出ている。
報道の姿勢を見るに、マスコミは前者寄りのようだが、色々なサイトを見るに、少なくともインターネット上では後者の意見が多いようである。

自分が現在アメリカで生活していることもあり、ふと思ったのが、「アメリカならこういう事件はどうなるだろう?」ということ。

昨今のアメリカの移民政策を見るに、おそらくImmigration Officeは、問答無用で強制送還措置をとるだろう。

報道によれば、両親は偽造パスポート(正確には「他人名義のパスポート」)で入国し、しかも入国目的は、「家計を支えるために出稼ぎに来た」というものであって、自国で迫害を受けるなど難民として入国してきたわけでもない。

要は、「自国と比較して賃金の高い国で、てっとり早く儲けるために不法入国した」ということだ。
意地悪な言い方に聞こえるかもしれないが、フィリピンは貧困国ではあるものの経済はある程度安定しており、一般に自国にいては生活ができないという状況ではない。もちろん、個別的にはそういう事情を持つ人もいるだろうが、それはどの国でも同じことであり(日本にだって、個別的には生活できなくて餓死したりホームレスになったりする人はいる)、かつ本件で両親が客観的にみてそのような事情を有していたかどうかは報道からは不明のため、ここでは捨象することとする。
(ちなみに、フィリピンは800万人以上におよぶ外国滞在労働者を持ち、経済の相当部分がその外国滞在労働者による仕送りにより支えられているという、発展途上国の中でも少し毛色の変わった経済構造を持つ。)

これは、どの先進国(あるいは発展途上国)においても、滞在が認められるような事情ではない。
ましてや、昨今移民を厳格に制限しているアメリカならなおのことだ。

--

逆説的だが、日本でこのフィリピン人一家に対する同情論が展開されるのは、日本が厳格に移民を制限してきたことの結果でもある。

アメリカはもちろん、フランスその他のヨーロッパの国々を見ても、移民や出稼ぎ外国人を大量に受け入れた国では、必ずと言っていいほど移民ともともとの自国民との間に摩擦が起こっている。
それは、単なる差別というレベルではなく、既得権益の侵害による衝突だ。

移民(あるいは出稼ぎ外国人)は、もともと物価の安い発展途上国から来ていることもあり、(先進国の尺度で)安い賃金でも喜んで(あるいはやむをえず)働く。
かつ家族を母国に残してきているケースの場合、先進国で稼いだお金は、本国では5倍、10倍の価値をもつのだから、生活費をぎりぎりまで切り詰めて、貯金するなり本国に送金するなりすれば、5年も頑張れば本国では金持ちの仲間入りだ。
また、戦争、政治的理由、飢餓など、何らかの事情で本国を完全に捨ててきた場合、働かなければ生きていけないので、安い賃金でも働かざるをえない。
どちらに転んでも、結局、移民や出稼ぎ外国人は、先進国で安い賃金の労働力を供給する存在となる。

その結果、先進国における、特に単純作業系の労働需要は、移民に占められる結果となる。
ほとんど個人のスキルが必要でない単純作業において、同じ作業を時給20ドルでやってくれるアメリカ人と、自給6ドルでやってくれるメキシコ人なら、ほとんどのアメリカ企業は後者を選ぶはずだ(実際、選んでいる)。
当然だが、このことは、自国においてこれまで単純作業系の労働を提供していた層の失業を招くことになる。

ここにおいて、移民と自国民との間には、深刻な対立が生じることになる。

差別というのは、それはそれできわめて重大な問題ではあるが、少なくとも一般市民のレベルにおいてはあくまで感情的な問題にとどまり、実利が害されるわけではない。
しかし、実際に自分の労働(とその結果としての収益)の機会が奪われるとなると、これはもはや文字通り死活問題だ。
生き死にがかかったレベルで、人が他人の生よりも自分の生を優先するのは、やむをえないことだろう。

あまり日本人は意識したことはないだろうが、先進国に生まれ、生きているということは、それ自体地球レベルで見ればものすごい既得権益なのである。
その権益の甘美さは、アメリカや日本にいる不法滞在者の数を見れば一目瞭然だ。

既得権益は、単純に労働需要や労働対価の大きさのみを指すものでない。
たとえば、「水道の蛇口をひねれば、飲んでも問題のない水が際限なく出てくる」ということだって、世界の大多数の国では当たり前ではない。「子供が学校に行く」ということだって、当たり前ではない国は本当にたくさんある。
「それが当たり前でない国」の人間が、「それが当たり前である国」に住みたがるというのは、これはもうしょうがない。

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さて、先進国で、自分の権益が侵されたと感じた人の数が一定以上に達した場合、何が起こるだろうか。

もちろん、今でもヨーロッパでよく起こっている、移民排斥運動である。

これは、デモなどの形をとって現れることもあるが、もっとも直接的な方法は、選挙における権利行使だ。
要は、「移民をじゃんじゃん受け入れます」という政治家には投票せず、「移民を制限します」という政治家に投票するということである。

政治家は当選しなければ話にならないので、当然、移民問題に対してどのような態度をとれば当選確率が高まるかということを分析してくる。
その国において、既得権益を侵されたと感じた有権者の数が一定以上を超えている場合、移民制限または排斥を訴える政治家の当選確率は高くなるはずだ。

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話を日本に戻そう。

日本で、今回のフィリピン人一家事件のような出稼ぎ目的の不法滞在に対して、ここまでの同情論が沸き起こるのは、日本人が移民や外国人出稼ぎ労働者によって深刻に既得権益が害されているとは感じていないことの表れでもある。

そして、それは、日本政府がこれまで移民や外国人出稼ぎ労働者に対してきわめて厳しい態度をとってきたことの結果でもあるのだ。

もし、これまで日本政府が移民や外国人出稼ぎを奨励し、大量に受け入れていたならば、今回のフィリピン人一家事件に対して同情論などは、まずもって生じなかったといえる。

なぜ断言できるかというと、実際に移民を大量に受け入れているヨーロッパ(特にフランスやドイツ)では、不法滞在者に対する同情論はほとんど存在しないからだ。アメリカでも同様である。
それは、合法的な移民の道がある程度開かれている(最近はそうでもないが)というのも理由の1つではあるが、一般国民の移民に対する感情自体があまり良くないという側面も大きい。
彼らにとって、外国人移民や出稼ぎ労働者は、同情するにはあまりにも自分たちの既得権益に踏み込みすぎているのである。

これは、心が狭いとか、寛容ではないとかそういったレベルの問題ではない。
いわば、生存競争の問題だ。

なお、ドイツなど、いくつかのヨーロッパの国では、不法滞在者に対しても特別滞在の道が法律上開かれているが、「法律上そのような制度があるかどうか」ということと、「一般市民の同情が集まるかどうか」というのは全くの別問題であるので、ここでは取り上げない。
本記事は、あくまで、「法制度がない場合に、特別の裁量で滞在許可を与えるかどうかについて、同情論が起こるか起こらないか」という点のみを問題にしている。

--

「移民や出稼ぎ労働者を排除してきたからこそ、彼らに対する一般市民の同情が高まる」

というパラドックスは、これからも日本で度々見られることになるだろう。

そして、おそらく、日本政府は、これからも不法滞在問題に関して今回のフィリピン人事件で見せた以上の配慮をすることはないだろう(個人的には、「既に日本で長く暮らしている」という事情(それ自体違法行為に基づくもの)以外に特別滞在を認める何らの正当な理由もないのに、子供本人だけにでも特別滞在許可を出したのは、ものすごい温情対応だと思っている)。

なぜなら、日本政府がそのように不法滞在事件に対して厳格な対応をしているからこそ、今回のような同情論が起こる余地があるということを、おそらく日本政府は認識しているからである。

今回、日本で起こった同情論、そしてそれに基づく特別な措置を取らない日本政府への非難を見て、ふと貧乏人に同情しているお金持ちの子供を連想した。

その同情は、裕福な親の庇護の下にいるからこそできるものであることに気付かず、「なぜこんなに可哀そうな人に恵んでやらないのか」と親を非難している子供。

純粋な、しかし未熟な善意。

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こんなことを考えるのも、やっぱりアメリカにいるからなんだろうなあ。
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Livestrong, Armstrong [日常]

うわーん、ランスが骨折しちゃった。

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自転車のアームストロング、レース中の転倒で骨折
3月24日10時45分配信 CNN.co.jp
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090324-00000001-cnn-int

(CNN) 自転車ロードレースのランス・アームストロング(米国)は23日、スペイン北部でレース中に転倒し、右鎖骨を骨折した。

レースは5日間の日程で、この日は第1ステージ(168キロ)が行われていた。アームストロングはゴールまであと16キロの地点で負傷し、病院で手当てを受けた。このようなけがは17年の選手生活で初めてというアームストロングは、米国に帰国し、手術を要するか医師の診断を仰ぐ。

アームストロングはがん闘病を経て、前人未到のツール・ド・フランス7連覇を達成。3年間現役を退いていたが、昨年現役復帰を表明した。5月9日に開幕するジロ・デ・イタリアに出場する予定だったが、今回のけがで出場は難しい状況。7月4日からのツール・ド・フランス復帰についても、黄信号が灯っている。

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わざわざ表題に「自転車の(アームストロング)」とつけるあたり、アメリカや日本での自転車競技の認知度の低さが表れていて、ちょっと悲しい…

それはさておき。

大丈夫、ランスはこれまでももっと高い壁を乗り越えてきた。
必ず、ツール本番ではその雄姿を見せてくれるだろう。
っていうか、見せてくれないと本気で悲しい…

ところで、記事からすると今年はジロに出るつもりだったのか。
復帰後はツールには絞らないってことなのかな。

最強のチャンピオンの復活を祈りつつ。

Live strong, Armstrong!!

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WBC連覇 [日常]

NYCの自宅で大学の同期とあつまって観戦。

大興奮。

イチローのタイムリーには本当に震えた。

あそこで打順が回ってくるところ、そこで決めてしまうところ。
ヒーローのヒーローたる所以。

そして、ヒットを打つことにかけては世界最高のバッターに対して、あのとき、あの場面で、一塁が空いていたにもかかわらず、逃げずに勝負を挑んだ韓国。

まさに世界一を決めるに相応しい決勝戦だったと思う。
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裁判員制導入後の死刑判決 [日常]

今年の夏以降、裁判員制が導入、開始される。

裁判員制は、地方裁判所における刑事裁判のうち、殺人、放火、強盗致死傷など、一定の重大な犯罪についての裁判について、市民の中から無作為に選ばれた裁判員6名が、裁判官3名とともに事件の審理にあたる制度である。
最高裁や検察庁により、周知のための懸命な広報活動がなされているので、多くの方は概要程度は知っているのではないかと思う。

さて、昨今の被害者重視、治安に対する不安の世論に応える形で、近年刑事裁判における厳罰化が進んでいる。
刑法上の法定刑自体が重く改正されているほか(たとえば、殺人罪は、以前の最低刑は3年以上の懲役だったのが、5年以上の懲役に改正されている)、実際の運用においても判決において言い渡される懲役刑の年数が以前に比べて数割程度増加していることや、死刑の言渡し数が2007年に過去80年間で最高の47件となっていることなどが、統計から読み取れる。

この厳罰化(あるいは諸外国に比して軽すぎた日本の刑罰の適正化)の流れの中、裁判員制が導入される。
そこで、裁判員制が導入された後、厳罰化、特に死刑判決の増加傾向がどうなるかにつき、少し考察してみたい。

--

日本における世論の死刑支持は根強く、直近の2004年12月に内閣府により実施された「基本的法制度に関する世論調査」では、死刑に対する世論として、以下のような調査結果が報告されている。

「死刑制度に関してこのような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである  6.0%
(イ)場合によっては死刑もやむを得ない    81.4%
わからない・一概に言えない           12.5%

この調査結果によれば、少なくとも、8割以上の国民は、死刑はやむをえないものとして受け入れているわけだ。
また、感覚的なものとしても、凶悪犯罪の犯人に対して、「あんな奴は死刑にすればいいんだ」という感情を持つ人は多いと思われる。

そうすると、「一般市民の法感覚を刑事裁判に反映する」制度である裁判員制の下では、死刑判決が増えることになるのか。

--

そうはならないだろう、というのが今のところの僕の予想。

これは少なくない数の人が指摘していることだが、死刑を言い渡すときのプレッシャーというのは、想像を絶するものがある。
なんといっても、自分の判決で、被告人が国家により強制的にその命を奪われることになるのだ。

もちろん、自ら手を下すわけではなく、実際には判決後一定期間が経過したあとに、法務大臣の執行命令に基づいて刑務官により執行されるわけで、判決と実際の死刑執行との間には大きな時間的、空間的な隔たりがある。控訴審や上告審での判決破棄の可能性などを考慮すれば、さらにその隔たりは大きくなるだろう。

とはいえ、それらはすべて「死刑判決」という大本から始まる因果の流れなわけで、その意味では死刑判決の言渡しは、本質的には被告人に向かってピストルの引金を引くのとかわらない。
前者が、「判決文の作成、言い渡し」→「その後の様々な手続」→「死刑執行」という因果の流れをたどるのに対し、後者が、「ピストルの引金をひく」→「弾丸が飛んでいく」→「命中して死亡」という因果の流れをたどっているだけで、両者の本質的な相違は、「その後の様々な手続」に多くの場合長い時間(場合によっては数十年)がかかるのに対し、「弾丸が飛んでいく」のは一瞬であることくらいだ。

もちろん、ピストルを撃っても弾丸が当たらないこともある。これは、「地方裁判所(第一審)で死刑判決を言渡したが、控訴審や上告審において死刑判決が破棄され、結果として死刑執行に至らなかった場合」、あるいは「執行前に病死など、死刑以外の理由により死亡する場合(実は死刑囚の病死等による自然死はかなり高い割合である)」などに相当するといえるだろう。

人間は、何のうらみつらみもない他人を殺すことに積極的になれるものではない。
もちろん、殺人行為自体を楽しむ快楽殺人者、あるいは「誰でもいいから殺したい」と他人を記号的にしか捉えられない通り魔的無差別殺人者など、例外はある。だが、そのような感覚を持つ人(さらに実際に実行してしまう人)はきわめてまれであろう。

実際、世のほとんどの殺人事件は、金銭や肉体目当、怨恨、証拠隠滅など、なんらかの「理由」があるものだ。客観的には理解しがたい動機であるとしても、少なくとも犯人の主観においては殺人に駆り立てる何かがあるのが通常だ。
また、少し視点を変えて、国家間の大規模殺人の応酬、すなわち戦争においても、「国益の確保」、「国家レベルでの自衛」、」「国家の命令」、「やらなきゃやられる(個人レベルでの自衛)」など、少なくとも当該国家および兵士においては、相手国の人間を殺す理由が存在する。

人間が他人を殺すには、なんらかの「理由」が必要なのだ。

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刑事裁判において、被告人は裁判官にとって、「何のうらみつらみもない他人」である。

もちろん、目の前の被告人は、何かしら犯罪行為を行ったわけで、だからこそ刑事裁判を受けているわけであるが、その犯罪行為そのものは裁判官個人には関係のない話である(万が一、裁判官が事件に少しでもかかわっている場合、そもそもその裁判官は当該刑事裁判を裁くことができない。これを除斥という。公平な裁判の担保のための制度である)。

目の前の人間は、どこかで誰かを殺したかもしれないが、それは裁判官個人にはかかわりのない話である。ちょうど、テレビのワイドショーの殺人事件の特集を見て、「なんてひどい」、「かわいそうに」と憤っている視聴者が、その殺人事件によって何の被害も利益も受けていないのと同じように。

それでも、犯罪行為の内容が、死刑に相当すると判断した場合、裁判官は死刑を言い渡す。

裁判官は、死刑を言い渡すとき、例外なく悩む。
死刑を回避できる事情がないかと、記録を隅から隅まで検討する。
ときには数週間も悩んだ挙句、死刑を言い渡すのだ。

なぜ悩むのか。

もし、目の前の被告人が、裁判官自身の家族全員を殺した犯人だったらどうか。
おそらく、その裁判官が死刑廃止の強い信念を持っている場合でない限り、裁判官が被告人と無関係である場合に比べ、死刑を言い渡すことにそれほど悩むことはないだろう。
この場合、裁判官には死刑を言い渡すべき(あるいは、言い渡したい)「理由」があるからである。
誰だって、自分の家族が殺されたら、犯人を殺してやりたいと思う。これは人間として自然な感情である。

しかし、目の前の被告人が、「自分とは全く関係のない、どこかの知らない人間たち」を殺した犯人だったらどうか。
少なくとも、感情面においては、裁判官はその被告人を殺す理由がない。
もちろん、事件の内容を知り、遺族の訴えを聞いて、義憤を感じることはあるだろう。しかし、義憤のみをもって、他人に死を宣告するほど強い感情を持てる人間はそれほど多くない。

こういう情景を想像してほしい。
目の前に、1人の男が手錠につながれてうなだれている。
記録を見ると、その男は多数の人間を殺してきたらしい。
この男自身はもちろん、殺された人間たちも、いずれもあなたが見たこともなく、聞いたこともない人間である。
この男に対する全ての処分決定権はあなたにある。
あなたが死刑を言い渡せば、男は隣の部屋に連れて行かれ、そこで絞殺される。
男は涙を流し、必死で命乞いをしている。

社会治安の観点から、この男を釈放することはできないことは、ほとんど全ての人で一致するだろう。
では、さらにそれを超えて、この男に死を言い渡すべきなのか。
残りの人生を、牢の中で過ごさせるだけでは刑罰として足りないのか。

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人間は、存在を認識しない他人に対しては、限りなく冷酷になれる。
たとえば、ソマリアで虐殺が起きていたときだって、多くの日本人は無関心だった。
でも、その一方で、いったん存在を認識した他人に対しては、多かれ少なかれ情を持ってしまう。
いくら罪があれど、目の前で泣き叫ぶ人間に対して、眉ひとつ動かさずに死を宣告できる人など、そうそういるものではない。

では、なぜ裁判官は、悩みつつも、死刑相当と考える事件については死刑を言い渡してきたのか。

それこそ、職業裁判官としての責任感、義務感である。
「死の重み」に耐えるだけの、裁判官としての責任感と覚悟。
それが、「判決文による死の宣告」を決断する源である。
この責任感と覚悟は、裁判官として多数の事件を裁き、経験と自覚を積み重ねる中で形成される。

翻って、一般市民である裁判員はどうか。
少なくとも、裁判官に比べて、人を裁くことについての覚悟の程度は低い。
これは、「一般市民を裁判員とする」という裁判員制の制度設計上、当然のことであり、裁判員が悪いというわけではまったくない。しかし、その覚悟の低さゆえに、「死の重み」を受け止めるだけの力は、裁判官に比べて低くならざるをえない。

そのため、裁判官と裁判員から成る刑事裁判における合議体の「覚悟」の程度は、裁判官のみから成る刑事裁判における合議体の「覚悟」の程度に比べて低くならざるをえない

その帰結として、裁判員制度導入後の死刑の言い渡し基準は、導入前と同じか、それよりも厳格になる(死刑判決が少なくなる)方向に行くと考えられる。

おそらく、実際の死刑相当の事案の裁判では、死刑言渡しを躊躇する裁判員を、裁判官が説得するという光景が多くみられることになるだろう。

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命はそれほど軽いものではない。
たとえ重犯罪者の命であっても。

国家により正当化されているとはいえ、死刑判決はまぎれもなく殺人行為の端緒なのだ。

ある日突然警察官があなたの家に知らない男を連れてやってきて、「この男は遠くの街でたくさんの人を殺しました。あなたが罰を決めてください。あなたが死刑といえば、あなたの言葉に基づいて、この男について死刑が執行されます。記録上も、あなたの決定にしたがって、この男には死刑が執行され、死亡したと記録されます」と言われたときに、「じゃ、死刑で」と言えるかどうか。

裁判員制度とは、つまりそういうことだ。

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「裁判官の判決は軽すぎる」
「刑事裁判に一般常識を」

世間では、裁判員制度が導入されると、厳罰化により死刑の増加につながるとみる風潮が少なからずある。

とんでもない。

裁判員となった一般市民は、テレビの前で無責任に「死刑にしろ、あんな奴」と叫んでいたことと、実際に死刑を言い渡すこととの違いを嫌というほど思い知ることになるだろう。

そして、裁判員と裁判官との間で、無期懲役(あるいは創設されれば終身刑)か死刑かの間で長い議論が交わされることになるだろう。

無期懲役を選びたがる裁判員と、死刑を回避すべきではないとする裁判官の間で。

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2009年謹賀新年 [日常]

明けましておめでとうございます。

・年末年始は寒い寒いNYCを離れて、フロリダで過ごしてました。
オーランドはすごかった。空港からホテル、各種テーマーパーク、テーマパーク間の移動まで、至れり尽くせり。
「リゾート」ってのは、ああいう街のことを言うんだなと。

・フロリダで、前々から行きたかったNASAのケネディ宇宙センターに行ってきました。
20年以上前に、宇宙飛行士に憧れた男の子、大感動。
本物の宇宙飛行士と一緒に写真を撮って、また感動。
家に帰ってから、アポロ13のDVDを見て、さらに感動。

・帰宅後はNYCの自宅でのんびり。
ぶらぶら買い物に行ったり、バレエやミュージカルを見に行ったり。
本棚で長らく眠っていた本も、8割がた消化。
こういう休みっていいね。

・今週月曜日から授業が始まり、また忙しくなってきました。
1か月近く英語の教科書を読むという行為から離れていたので、リハビリが結構きつい。

・留学生活は楽しいです。
ブログ更新してる時間がもったいないくらい(笑)


さて、今年も頑張っていきまっしょい。

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働くモチベーション [日常]

「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。

道ばたに空き缶が落ちている。

誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すのは「この空き缶を見つけた私の仕事である」というふうに自然に考えることのできる人間のことを「働くモチベーションのある人」と呼ぶ。

別に私は道徳訓話をしているのではない。

私が知る限り、「仕事のできる人」というのは、例外なく全員「そういう人」だからである。

ビジネスの現場において、「私の仕事」と「あなたの仕事」の隙間に「誰の仕事でもない仕事」が発生する。

これは「誰の仕事でもない」わけであるから、もちろん私がそれをニグレクトしても、誰からも責任を問われることはない。
しかし、現にそこに「誰かがやらないと片付かない仕事」が発生した。

誰もそれを片付けなければ、
それは片付かない。

そのまましだいに増殖し、周囲を浸食し、やがてシステム全体を脅かすような災厄の芽となる。
災厄は「芽のうちに摘んでおく」方が巨大化してから対処するよりずっと手間がかからない。

共同体における相互支援というのは要するに「おせっかい」ということである。

最初に「災厄の芽」をみつけてしまった人間がそれを片付ける。

誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」であるというのが「労働」の基本ルールである。

「『おせっかいな人』の孤独」 内田樹 より

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そろそろ働きたくなってきました。
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